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太平洋戦争前に、外交官、外相、首相を歴任し、戦争回避の道を求めるも叶わなかった文官・広田弘毅の物語です。
福岡県の石材店の息子として生まれ、篤志家の支援により東京帝国大学を卒業し、1907年に広田は外交官になります。駐オランダ大使に左遷された際には「風車、風が吹くまで昼寝かな」と詠んで、「自らは計らわぬ」生き方に徹します。
その後、外相、首相を歴任しますが、どの立場でも一貫して粘り強い議論と交渉により協調外交を目指す姿勢が描かれます。
しかしやがて、軍部に気に入られた者しか内閣を組織できない状況になり、交渉の意思はことごとく軍部に踏み砕かれます。
広田にとって「外交の相手は軍部である」という痛切な思いがにじみます。
敗戦後の東京裁判では、「統帥権の独立の名の下に、軍部が独走し、政治や外交がそれに引きずられていくという構造は、検事側にはのみこめないようであった。彼らの国では、いつも政治が優先し、軍は文官によって指揮統御されているからである。」と説明される通り、確かに戦後の民主主義の中で生まれ育った私たちにも、なぜ軍部が暴走し得たのか、理解しにくい点だと感じます。
そしてその結果として、文官の処罰が必要という結論が導かれたということのようです。
「長州の作った憲法が日本を滅ぼす」と述べて軍部に抵抗しながら、広田は戦争責任について自己弁護をせず、東京裁判で絞首刑の判決を静かに受け入れるのでした。
中国、ロシア、北朝鮮の脅威にさらされ、軍備拡大が叫ばれる現在、日本はどのような外交交渉をすべきか、個人として如何に生きるか、過去の事例を知って深く考えたい方にオススメします。
平和につくした外交官が、なぜ、A級戦犯となり、絞首刑となったのか。
元首相・外相、広田弘毅の生涯。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞。
東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。
戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。
そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。
元首相・外相、広田弘毅の生涯。毎日出版文化賞・吉川英治文学賞受賞。
東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。
戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。
そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。
(amazonより抜粋して引用)

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